「おかしいなあ」

最初に気付いたのは七郎次だった。

何事にも敏いこの男は、他人の気持ちの揺れなど明日の天気よりも容易く嗅ぎ当てる。

「おかしいですねヘイさん」

「何がですか」

首を傾げて真っ直ぐに見返した。勿論いつもの笑顔で、だ。

「ヘイさんが、に決まってます」

「私が?」

「はい」

整った顔立ちでしかつめらしく頷いた。

昼餉の後、誰もがほんのひととき心平らかに過ごそうと思う頃合に何を言いだすのか。

「疲れてるんだから休みなさいとか、そんなお説教を遠回しにするつもりですか」

「それはそれでゆっくり訊いて頂きたいんですがね」

「遠慮します」

間髪入れずに返せば、ふふっと笑う綺麗な横顔。

「でしょう? だから別の話にしたんです」

「何だかそちらも遠慮したい気配なんですが」

「さすがヘイさん、勘が宜しいようで」

こういう会話になるとどうも分が悪い気がして、平八は一度浮かせた腰を据え直した。

このまま立ち去ってもいいのだが――否むしろそうすべきだとわかっているのだが、あんな顔で笑うから受けて立ちたくなったのだ。

向き直った平八を見て、七郎次はちょっと驚いたように瞬くと、

「おや、うっちゃって行っちまうかと思ったのに」

「先送りにしてもどうせ蒸し返すんでしょうから、今伺います」

「こりゃ一本取られました」

あははと天を仰いだ喉が白く閃いた。平八が普段から細めている目をさらに細めると、

「何を遠慮してるんです?」

「え?」

「どうしてあんなふうに余所余所しくするんです……今さら」

さっき自分がしたのと同じように、首を傾げて見詰めている。真っ直ぐに。

「何のことやら私には……」

「五郎兵衛殿に何か言われましたか」

いきなり来た。いきなり過ぎて返すことばが見つからず、だから笑ってしまった。

平八が笑えば周りの者も笑う。

野伏せりとの戦を控えた農民たちは経験したこともなければ際限もない緊張に呑まれてぽきりと折れそうな具合だが、

平八が笑いかければ誰もが同じような笑顔になった。男ですらそうなのだから、女子供は言うまでもない。

侍たちにしても同じだ。落ち着き払った勘兵衛も、生真面目な勝四郎も相好を崩す。

あの久蔵でさえ口の端が緩みかけて、苛立たしげに顔を背けたと教えてくれたのは、他ならぬこの七郎次だった。

七郎次。

浅い色の髪、瞳、白い肌を持った優男だが、腕は確かだ。

そして、確かなのは腕ばかりではない。

あの勘兵衛をして古女房と呼ばしめるだけの度量がある。

この男も平八同様笑みを絶やさない。しかし今、この男は毛ほども笑っていなかった。

薄青く冷徹な瞳に映る自分の、大袈裟に崩れた表情に白けた思いを悟られぬよう、平八はそれでも笑顔のまま口を開く。

「な……にをおっしゃるかと思えば。御冗談を、ですよ」

「怖がらなくてもいいと思うんですがねえ」

こちらの話など訊いちゃいない風情で呟く。

怖がる、と言ったか。この男らしい的確さに唇を噛めば重ねて、

「言っちまいなさいな」

何を、と問うのを許さない口調だった。

「閉じ込めた思いは燻って、却って毒になりますよ」

「知ってます」

三日月のように撓めた瞳をうっすらと開いて、平八は七郎次を見返した。

そんなことは誰よりも知っている。

知っているからこそ言えないのに、その心組みもわかっていながらこの男は、敢えてこちらを試すようなことを言う。

この胸の痞えを吐き出してどうなると言うのか。

報われることなど考えず、相手に告げることで終わりにしろいうことか。そして忘れろとでも?

忘れることなどできない。終わりになどなるものか。

「思い」は確かに自分のものだけれど、望んで抱えるわけではない。いつの間にか芽生えて、気付いたときには自分を翻弄するほどに育ってしまう。

何かを悔やむ思いだろうと人を恋うる思いだろうと違いはない。だからせめて、そんな思いに負けて口に開くことなどしたくないのだ。

いつもの笑みが消えた相手の顔を、七郎次はしげしげと見つめていた。

心持ち色素の薄い瞳は揺らがない。切れ長の輪郭は何かの葉を連想させる。

――ああ、薄(すすき)だ。

薄の葉っぱは細くて長い。だけどさあっと人を切る。ヘイさん本当は、そんな目をしてるんだ……。

腑に落ちた瞬間大きく一つ息を吐いて、七郎次は両手を挙げた。

「……あたしが悪かった。無粋なことを言いました」

笑いかければ目の前の顔にも笑みが戻る。強い光を放った瞳はもう、いつものなだらかな波形を見せていた。

「そうですよシチさん、あなたらしくもない」

まだ何か言いかけたはずが、はっとしたように背を向ける。

顔を上げれば今度は七郎次の耳にも、張りのある呼び声が届いた。

「おーいお二方、交替の時間だが……?」

木立の向こう、緩やかな足取りで近付いてくる背の高い人影。

「はーい只今!」

答えると同時に歩き出す。

ここまでの遣り取りも自分のこともすっかり忘れていそいそと、小走りと言った方が相応しい速さで。

――ホント、無粋な真似をしたもんだ……あたしとしたことが。

子供みたいな喜びを隠さない背中を見送りながら、さてと、と七郎次も立ち上がる。

腰を払ってひとつ伸びをして踏み出せば、思いがけず近くで響いた羽ばたき。

見上げた空は、どこまでも高かった。





ミナト様より!!


言え。言ってしまえ〜!!とメガホン握り締めたくなりました。
不器用なヘイさんが可愛いです。
ゴロさんはきっと、全部受け止めてくれますって。
くぅー!ヘイさんの恋、応援します。

素敵な作品、どうもありがとうございました!