世界が始まる前に
全てが反転した。
天と地が、風が、色彩が。
落ちる、と思った時にはもう、あれほど痛かった全身の痛みは消えて、浮遊感すら感じられた。
すぐ近くの爆発音でさえ、銀幕の中のことのように思える。
仕事は、終わった。
何となく、その一文がヘイハチの頭に流れてきて、丁度真中で止まる。
まるで、コンピュータを終了させた時に最後に出てくる終了完了の塩梅だ。
これ以上、頭の中で何かが立ち上がることはない。
これで、終了なのだ。
まだ、戦は続いている。しかし、己の最低限の仕事は終わらせた。
結末を見ることが適わないのが悔しいが、あの人たちなら大丈夫だろう。
戦場で散るなんて、サムライらしいや、なんて人事のように余韻で笑う。
駄目だ、もう暗い。
空は晴れて明るいのに、まるで脇からグレースケールのフィルターをかけたように、どんどんと
その色を失ってゆく。
きっと、これで意識が閉ざされればもう二度と目覚めることはないだろう。
全ての感覚を手放し、後は目をゆっくりと閉じるだけ。
ヘイハチの視界が、後一本、横に走る線を覗いて黒に支配された。
すると、突然落下が止まる。
完全に閉じかかっていた最後の一筋を無理矢理こじ開けると、懐かしい笑顔がそこにあった。
落下が止まったのはゴロベエに抱きとめられたからだと気づいても、ヘイハチはなんだか焦点の合っていない顔で
じっとゴロベエを見る。
「ゴロさん…来てくれたんですか」
「なんだ、随分ぞんざいだな」
ヘイハチがぼうっとした頭でゴロベエを見る。寝起きを無理矢理叩き起こしたかのようなヘイハチに比べて
ゴロベエは随分しっかりしていた。
回りは白一色の世界だった。
まるで、三次元全てが白い紙に支配されたかのような無機質で味気ない空間。
そんな中に二人は、二人だけだった。
「何故でしょう。もうずっと会っていないのに、ずっと一緒だった気がする」
「そうか」
ヘイハチはゆっくりとゴロベエを抱きしめた。
「これは、私の夢なのかな。だって貴方は死人ですから…」
すると、ヘイハチは「あ」と笑った。
「そうか、では私も」
ゴロベエは何も言わずに、ただ微笑を浮かべているだけだったが、ヘイハチは納得したように「そうですか」と
もう一度ゴロベエにしがみつく。
「今度こそ、もう離さぬ」
ゴロベエの腕が、ヘイハチを己の中に沈めてしまうかのようにきつくなった。
「終わりじゃ、ありませんね」
安堵したようにゴロベエに身を任せているヘイハチがゆっくりと微笑んだ。
「また、始められますね」
「ああ。どっかの誰かさんじゃないが『イツモフタリデ』だ」
「あれはちょっと恥ずかしいですが…」
「ははは、そうかそうか」
ゴロベエが「歩けるか?」とヘイハチに尋ねた。
ヘイハチは少し考えると意地悪そうに笑ってみせる。
「いいえ、まだ歩けません」
「ご冗談を」
歩けるくせに、ゴロベエの腕の中が良いなんて。
ゴロベエは「行くか」と笑ってヘイハチを抱いたまま、白い空間の中を歩き出した。
「どこへ行くんですか?」
「さぁな。某にも良く解らぬ。ま、鬼がでるか蛇がでるかは、お楽しみって訳だ」
「相変わらずですねぇ」
「良いではないか」
「はぁ…」
「なんだなんだ!歯切れが悪いぞ!」
「死んだばっかりで実感が湧かないんですよ」
「しっかり、しろ!」
あ、とヘイハチはゴロベエの肩を叩く。「どうした」とゴロベエが尋ねると、ヘイハチは真面目な顔で
こういった。
「この世にも、米はありますかね」
END
感動の再会風じゃありませんでした。
まだふわふわしてるヘイハチと、もう馴染みきってるゴロベエ。
ちょっと浮世っぽさを抜いたらあっさりしたものになりました。