世界が終わる時
囲炉裏にくべられた墨が真っ赤になって爆ぜる音がする。
戦は、一先ず終わった。取りあえずはカンナ村の勝利で良いだろう。
怪我人のヘイハチは一足先に濡れた衣服を脱いで、キララの用意した寝間着に着替えた。
そして思った以上に深かった腹の傷に皆を驚かせながら、リキチの家の寝室で寝ている。
キララを始め、傷の手当てをしてくれた女達は、多くの怪我人の相手をしているのだろう。
ヘイハチは、身体の位置を少しずらした。それだけで腹に激痛が走る。
「…思った以上に、私は情の薄い人間かな」
ヘイハチは息をついて高いとは言えない真っ暗な天井を見上げた。
ほんの数刻前。
まだヘイハチが刀を持って戦場に立っていた時刻。
ゴロベエが死んだ。このカンナ村の戦いで、唯一の犠牲者である。
もう、ゴロベエはいないのに。
先ほどシチロージやキクチヨが、遺体を水分の社に運んだのをこの目で見ている。
しかしヘイハチは、ここでこうして寝ていれば、そのうちずぶ濡れになったゴロベエが
「いやぁ、参った参った」などと軽口を叩きながら駆け込んでくる気がしてならないのだ。
ゴロベエを失った実感がないから、悲しみすらも起こらない。
ただあるのは、酷い腹の痛みだけ。
「ゴロさん…」
口に出して呼んでみた。
「『某と来るか』って言ってくれたじゃありませんか。それなのに、何故私ひとりを置いて逝くんです」
目を閉じても瞼の裏に浮かぶのはゴロベエの笑顔。身体に感じるのは大きな手。
深い口付けすらも、こんなに鮮明に思い出せるのに、何故貴方はいないのか。
身体が、ゴロベエを待っている。
腹の傷がこんなにも痛い。熱を帯びて、苦しい。
愛するあの人がやってきて、「大丈夫か」とそっと額に手を当ててくれることを待っている。
ゴロベエはまだか、まだかと身体が叫ぶ。
しかし、頭は身体の切ない叫びに、「あの人は死んだ」と頭から押さえつけにかかる。
まだかまだかまだか。もう待てない。あの人が欲しい。あの人の声が聞きたい。
死んだ死んだ死んだ。もうあの人はいない。この世にいない。お前は一人だ。
「嫌だぁ…ぁあ!!」
ヘイハチの口から、悲鳴が弾けた。
「ゴロさん、ゴロさん、ゴロさん…!!」
もう、居ても立ってもいられなかった。身体が頭の制御を引きちぎり、激情に駆られるままに表へ飛び出す。
包帯に、寝間着に赤い血がべっとりと滲み出すのも忘れて、裸足で雨の中、水分の社に走る。
「ヘイさん!?」
途中傘もささずに寝間着一枚で畦道を走るヘイハチを見かけたシチロージが、慌ててヘイハチの行く手に立ちふさがった。
浴衣の三分の二は、腹の傷から湧き出る血が雨に滲み、赤く染まっている。
足は膝まで泥だらけで、見るも無残な格好なのに。目だけは不思議と清く澄んでいた。
「シチさん、どいてください」
その澄んだ目が、不自然に微笑む。
「ヘイさん、傷が開いている。先ず手当てが先だ」
しかし、ヘイハチは首を横に振った。
「手当てなどどうでもいい。ゴロさんに会いたい」
「駄目だ」
「でも、私はいきます」
「ヘイさん!」
普段のヘイハチなら、シチロージがその行く手を遮る位訳はない。
しかし、今日に限っては、ヘイハチは煙のようにシチロージの脇をすり抜けてしまう。
シチロージが後ろから追って止めようとしても、まるで実体がないかのように掴めないのだ。
遠くなるヘイハチの後姿を力無く見送りながら、シチロージは悲しそうに肩を落とした。
水分の社の本殿には、誰もいなかった。
キララ達のいる母屋には向かわず、ヘイハチはその誰もいない本殿に忍ぶ。
ぺた、ぺたと幽鬼のように濡れた身体を引きずってゴロベエが眠っている脇に座り込んだ。
「ゴロさん、いるじゃないですか」
あはは、と身体が笑った。頭が止めろと止める。しかし、身体は止まらない。
顔にかかる白い布を取り、ヘイハチはその頬に触れた。
冷たくはなかった。
それだけ、ヘイハチの身体が冷え切ってしまっていたのだ。
ヘイハチはそっとゴロベエに口付ける。一回、二回、三回。
どれだけ深く口付けても、ゴロベエが応じてくれることはない。
ヘイハチは顔を離して、悲しそうに笑った。
「…私のことは、遊びでしたか?」
ギリ、と心の奥が削られるように痛んだ。
一緒にいくか、と言ってくれたのに。何故こんなとがいえるのだろうと、頭が身体を責めた。
しかし、身体が頑として聞かない。
「貴方はいつもそうでした。私がどれだけ愛しいと言っても、貴方は苦笑するだけ。
口付けて抱いてはくれますが、心から愛してくれたことは…」
なく、ない。
それは身体もよく知っていた。だから、止めた。
ゴロベエはヘイハチを愛してくれた。心から慈しんでくれた。
確かにそれを伝える言葉数は少なく、鳥のように愛を歌うことはなかったが、
ヘイハチの闇を許容し、闇ごと抱きしめてくれた。
「だったらどうしてっ…私を独り残して逝くのですか…!!」
ゴロさん、とハイへハチは涙を拭くのも忘れてゴロベエに縋る。
起きて、起きてください。また私の頭を撫でてください。大きな腕で抱きしめて…
「さらば、と言ってください」
そうすれば、私は貴方を引きとめたりしませんから。
「全部嘘だと、愛したのは嘘だと!!全て出鱈目で冗談だと言ってください!
本当は遊んでいただけだと。子供の守をしていただけだと…」
そうすれば、私は一人で立ち上がれますから。
いつの間にか支えあっていた体は、こんな土砂降りの雨の中、急に一人の足で歩くのは酷。
もし、崩れて雨に打たれる己を嘲笑ってくれたのなら、悔しさで立ち上がれるのに。
下手に優しい思い出ばかりが肩にかかって、起き上がることも出来ない。
「ゴロさん…好きです。愛してます」
その言葉を本当に言ったか言わないかは記憶にない。
ヘイハチはその場で意識を失った。
ヘイハチが目覚めたのは、それから三日後。
目を覚ますと明かり取りの窓からは威勢のいい太陽の光が差し込んでいた。
「ヘイさん、目が覚めたか。よかった」
すぐに家に入ってきたのはシチロージだった。
シチロージは、ヘイハチの傍らに座ると「すまねえ」と頭を下げた。
「ゴロさんの埋葬は…我々で済ませた。ヘイさんの起きるのを待っていたかったのだけど」
「いえ、ありがとうございました」
ヘイハチの言葉には全く生気がない。
大丈夫かい、とシチロージはヘイハチの顔を覗き込む。
「ええ、大丈夫、生きてます。でも、傷は痛みますね」
「あんな無茶をするから。血だらけでゴロさんの隣で気を失ってるヘイさんを見たときには、後でも追ったかと
寿命が縮みました」
「ご心配おかけしました」
ヘイハチが軽く頭を下げると、シチロージも笑顔で首を横に振る。
「なァに、心配をかけられるのは慣れてまさァ。ウチの旦那も相当ですから」
「はは、ははは…」
しまった、とシチロージは口をつぐむ。しかし腹水は盆に返らない。
「ヘイさん」
シチロージが懐から懐紙に包んだ何かを取り出し、ヘイハチの手に乗せた。
開いてみると、それは刀の下げ緒だった。
「これは、ゴロさんの…」
「ええ、そうです。ヘイさんが持っていればいい」
ああ、とヘイハチはその下げ緒を抱きしめた。
ゴロさん、ゴロさん…と。
それから、ヘイハチはシチロージに肩を貸してもらいながらゴロベエの墓に参った。
墓地となったのは村の端の見晴らしのいい丘の上。下げ緒のない刀が、彼の墓標である。
「ゴロさん、確かにお預かりさせていただきます」
ヘイハチは手を合わせてゆっくりと瞳を閉じた。
「いつか、必ず返しに伺いますから。それまで待っていてください」
ヘイハチはシチロージの方を向いて微笑んだ。
「ねぇ、シチさん。まだ戦は続くでしょう?もし私が死んだら、ゴロさんの隣にお願いしますね」
「…滅多なことを」
「無駄死にはしませんよ。私はサムライですから。でも、万が一…ね」
ようやく声音がいつものヘイハチに戻った。シチロージは肩をすくめて笑って見せた。
「承知」
END
もう一つ、続いて終わりです。