背中
まだヘイハチは、身体に篭った熱が冷めないでいた。
そのせいで、手に持つ愛用のスパナが肩から震えてならない。
顔を洗ってくると言い残し、ヘイハチは山奥に流れる小川に向かった。
頭の中は妙にクリアで、真新しいスクリーンのようなのに、身体だけが使い古しのモーターの様。
マンゾウの一件はキクチヨの大演説にシノの涙が添えられて、なんとか無事収まった。
キクチヨが居なければどうなっていたかと、後からしてみると少し冷や汗が出ないでもないが、
その結果、農民とサムライの間に潜んでいた『世界の違い』という摩擦で生じた膿が大部分出てしまい、
今朝よりも彼らとの距離が近くなったような気がする。
それは、よく解っているのだ。だから、頭の中は本当に綺麗だ。柔らか布で拭いた後の眼鏡だってこうは綺麗に行くまい。
「…はは」
ヘイハチは自嘲気味に笑った。
先ほどの自分の態度で、一体何人が『気づいて』いるだろうか。
少なくともカンベエ…そしてもう一人。
気づかれたくはない。けれど、絶対にいつか話さねばならなくなるだろう相手。
あの人もきっと…気づいている。
「ヘイさん」
「うっわぁあ!」
ポン、と後ろから肩を叩かれてヘイハチは飛び上がった。
気配なんて感じている余裕すらない己を恥じながら、ヘイハチは恐る恐る振り返る。
「そんなに驚くな。考え事でもしていたか?」
はっはっは、と豪快に笑う男が一人。ゴロベエだ。
「カンベエ様じゃなくてほっとしました。先ほどのザマに今の失態。あの方だったら次に合わせる顔がありません」
「ん?それはどういう意味だ?」
「いえいえ。どうもこうもございません」
まあ良い、とゴロベエは笑う。
「ヘイさん、一人でどこらへ」
それもそうだ。唯でさえ時間がないのに、マンゾウ事件で使った時間の遅れを取り戻す為、建設・土木一切の責任者である
ヘイハチが一人こんな山奥をうろついているのは在り得ない。
ヘイハチは「顔を洗いに」と素直に応えた。
「そうか、では気をつけていけよ」
ゴロベエはいやにあっさりとヘイハチに手を振る。
ヘイハチもペコリと頭を下げて見せた。
その、次の瞬間。
ゴロベエがヘイハチに背を向けて歩き出す一歩目の足音がヘイハチの耳に、やけに大きく聞こえた。
ぞく、とヘイハチの背筋に冷たいものが走る。
ゴロベエは気づいているに決まっている。
自分が、『裏切り者』の烙印を背負う者だということを。
ホノカの件で浮き彫りになった己の罪は、きっと今回確信をもたらしめただろう。
裏切り。それはサムライが最も恥ずべき行為。
ヘイハチから歩き去るその足音は、ゴロベエが本当にヘイハチから去っていってしまうように思えた。侮蔑の笑みを湛えながら。
「ゴロさんっ!」
ヘイハチは思わず叫んでいた。きっと、上ずった、余裕のない声だっただろう。それでもヘイハチは構いはしなかった。
足音がやんだ。
ゴロベエが立ち止まるのが解る。しかし、ヘイハチはゴロベエの方を振り向かなかった。
「どこまで…気づいてますか」
「言って欲しいか?」
ゴロベエの声音は、いつもの明るいそれではなかった。
怜悧で誇り高い、サムライの声。
ヘイハチはゾクリ、と身体中の毛が逆立つのを覚える。
ヘイハチもサムライだ。かといって、キュウゾウのように常に常に自分の好敵手を探している訳でもない。
もしくはシチロージやゴロベエのような前線のサムライのように、文字通り死線と修羅場をかいくぐっていた訳でもない。
サムライと一口に言っても、色々あるのだ。
刀を振るうサムライもいれば、技術屋のサムライもいる。
ヘイハチは七人の中では唯一、技術屋のサムライだった。
その技術屋のサムライが、刀を生業にしてきた前線のサムライと刃で張り合っても、浴びてきた血の雨の量が違う。
差は歴然だ。
「…失望、しましたよね。私のような人間が貴方の側にいたことを」
ヘイハチは、震える腕を何とか納めようと両腕でしっかりと抱えあった。
足も、身体の内側から沸き起こった冷気で冷されたのか、感覚すらない。
ヘイハチの心が、ドクン、と言った。
痛い。
優しかったゴロベエ。最初にこの仲間に誘ってくれたのはゴロベエだった。
野伏を四十機ほど斬ってみないか――と。
いつしか一番近くにいたゴロベエを想い慕うようになり、その気持ちに自覚した矢先。
自らの罪が露呈した。
ゴロベエの足音が一歩、また一歩近づく。
ヘイハチは首筋に冷たい刃の感覚を覚悟しながら身を強張らせていたが、ヘイハチに次に感じたのは
暖かくて大きな腕だった。
「馬鹿者。サムライに眉を潜めるような過去の一つや二つ付き物だ。今のお主が誰にも恥じない生き方をしていれば
それでよい」
「恥じない、ですか」
ヘイハチはまだ凍ったままだ。ゴロベエは「そうだ」とその大きな胸の中で抱いてやる。
「先ほどキクチヨも言っておっただろう。この村を理不尽な搾取から護る、と。それはサムライとして恥ずべき行為か?」
ヘイハチは横に首を振った。
「それで、よい」
ゴロベエがもう一度強くヘイハチを抱きしめた。
「驚かせてすまなかったな」
ヘイハチはゴロベエの腕の中でゴロベエに向き直り、「ゴロさん」としがみつく。
「私は…!」
「今は、時期ではなかろう」
ゴロベエはやっといつもの笑顔をヘイハチに見せた。
「この戦が終わって、落ち着いたら聞こう。そんなに簡単に話せる話でもあるまい」
「…はい」
全く、とゴロベエは笑った。
「お主は真面目すぎる。それではカツシロウと大差ないではないか」
「カツシロウ君とですか」
露骨に不満の顔をして見せると、ゴロベエはおいおいと苦笑する。
「そこまでいやそうな顔をしてやるな」
ゴロベエは自分の胸にヘイハチを埋めながら、ゴーグルと帽子を取り去って、その伸ばし放題の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「某にくらい甘えてくれても良いではないか」
ガバッと、ヘイハチは顔を上げる。そして、ゴロベエの顔を見上げた。
厳ついが、優しい大人の笑み。その笑顔に何度助けられてきたか。そして、どれだけ愛しく想い焦がれているか。
大戦が終わり、罪を背負ってからというもの、特定の人と関わることを避けてきた。
孤独に泣き叫びたくなる夜も何度越したか――。そんな人生に突如として差し伸べられた大きくて暖かい手。
その手に抱きかかえられ、その手に縋り、恋い慕うことを誰に止められただろうか。
ヘイハチの手が、ゴロベエの頬に触れる。すると、背中が大きな手で支えられ、もう片方の手がヘイハチの頬を覆う。
ヘイハチの足が浮かび、間近で二人の視線が合う。
「ゴロさん」
呼んだつもりが、最後まで音にはならない。
その前に口は接吻で塞がれ、ヘイハチは目を閉じた。
ゴロベエは罪を降ろせとは言わなかった。
罪を背負ったまま、生きろと。
END