いとしいとし
草の、青臭い匂いがぷんと香った。
瑞々しいというよりは、植物本来の粘り強い生の香り。
今宵は新月。
この暗闇の中、村人は滅多なことでもない限り、家からは出てこない。
ゴロベエは今しがた出て行ったばかりのヘイハチを追った。
このむせ返るような生々しい植物の呼吸の中、彼が通った跡は清廉な晩秋の風のように澄んでいた。
その跡を肌で追って暫く、リキチの家の納屋の前でヘイハチを見つけた。
「ヘイハチ!」
「え?」
ヘイハチが、全くの無防備な表情で振り返る。サムライどころか、野伏に怯えた昨今の農民だって、ここまで無防備な顔はしない。
もし、ゴロベエが悪漢や野伏なら、一瞬にしてヘイハチの命はないだろう。
「ゴロさん」
どうしました、と今初めて会ったように笑う。まさか先ほどまで睦み会っていたなどとは誰も思わないだろう。
「ヘイハチ」
ゴロベエは一歩彼に近づいた。するとヘイハチは一歩後ずさる。
「ええと、私に何か」
用事など、ゴロベエにあるはずもない。
殆ど反射的にヘイハチを追ってきてしまったのだ。
言い訳の一つも用意していないゴロベエに、ヘイハチはくすっと笑う。
「なんだ、ゴロさん。私に会いに来てくれたのかと思った」
もし、その台詞を通りがかりの村人が聞いたら、きっとヘイハチの冗談だと思うだろう。
仲間同士で交わされる、懇親の意味の挨拶七変化だと思うだろう。
ヘイハチにとって、戦場で抱いたゴロベエへの想いは『サムライとしてのマイナス』。
それでも、そのマイナス面を打ち消すどころか、日に日に募らせてゆく己に吐いた、冗談の裏に隠した皮肉だった。
その台詞は、ゴロベエの恐怖や痛みを感じなくなった心には、その言葉は深く深く突き刺さった。
必死に平生と思慕との間を笑顔で埋めようとし、閨で遊びだと言い切り、無理矢理笑い、抱きしめられるのにも一つ一つ理由を探す。
人に恋したら当たり前のように沸きあがってくる言動の全てに、サムライとしてマイナスにならない言い訳を常に貼り付けていないと、
生真面目なヘイハチはゴロベエの隣にはいられないのだ。
その姿が、痛々しくて愛しい。
「ああ、そうだ。会いに来た」
ご冗談を、と聞こえるはずの耳に、違う台詞が届いた。ヘイハチは驚いて目を見張る。
丸い目でじっとゴロベエを見返せば、少し苦笑したゴロベエがこちらを見ていた。
ヘイハチの目に、一瞬影がさした。そして、くるりと背を向けて歩き出す。
きっと、それ以上ゴロベエを見ていられなくなったのだろう。もし、見てしまったら、きっとヘイハチの身体はそのまま
ゴロベエに飛びついていたに違いない。
「駄目です、ゴロさん。そんなこと言ったら、駄目ですよ…」
嬉しい。
ヘイハチの背中が、確かにそう言っていた。けれど、聞こえるのは涙混じりの声。
「駄目なものか」
「駄目ですって」
「ヘイハチ」
「いけませ…ッ」
ヘイハチの呼吸が、途切れた。
ゴロベエが後ろから思い切りその身体を抱きしめた。腕をずらし、己の中に沈めてしまうように。
「ゴロ、さん…」
「遊びではないぞ」
「…はい」
腕を外さぬまま、ゴロベエはヘイハチの身体をゆっくり回し、こちらに向けさせる。ヘイハチは嬉しいやら恥ずかしいやらで、
その顔を下に向けていた。
「全くお主は…。そうしておるとまるで、生娘だな」
「なっ…!」
その、一瞬を狙って、ゴロベエがヘイハチに口付ける。
強く深く口付けられ、ヘイハチの背中は、背筋が伸びたまま、力の方向に反った。
「ヘイハチ」
「はい」
「お主を誘った時から、既に恋しておったのかも知れぬなァ」
「えっ?」
ゴロベエが笑う。ヘイハチは信じられないといった風にゴロベエをじっと見上げた。
「どうしましょう」
「ん?」
「今、凄く嬉しいです」
「そうか」
ヘイハチは微笑んでゴロベエの胸に飛び込む。サムライのゴロベエが先に箍を外したことで、
ヘイハチの凝り固まった「サムライとして」が消えたようだ。
「お主の、あんな表情を見るのはもう沢山だ」
ゴロベエはヘイハチの背中を愛しそうに抱きしめた。
END
「ダレカサン」続編。
壱弐様が挿絵をつけて下さいました!!
※当作品は壱弐様に差し上げた物で、挿し絵掲載許可も頂いております。
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